2月3日、まず長可、忠正の先鋒が岐阜城を出陣。若い両将の目付けとして秀隆が本隊から派遣された。2月6日、先鋒隊は伊那街道から信濃に兵を進めている。伊那街道沿いの武田勢力は恐れをなし、織田の先鋒隊が信濃に入った同日、岩村への関門・滝沢(長野県下伊那郡阿智村・平谷村周辺)の領主であった下条信氏の家老・下条九兵衛が信氏を追放して織田軍に寝返り、さらに松尾城(飯田市)城主小笠原信嶺も織田軍に寝返った。
2月12日、本隊の信忠と一益がそれぞれ岐阜城と伊勢長島城を出陣し、翌々日の2月14日には美濃岩村城に兵を進めた。翌日には信長から一益に「若い信忠をよく補佐せよ」との書状も届いた。2月16日、武田勢は鳥居峠で信長の命を受けた織田一門衆らの支援を受けた義昌勢に敗北を喫した。翌17日に信忠は平谷に陣を進め、さらに翌日には飯田まで侵攻。同日、飯田城城主保科正直は城を捨てて高遠城へと逃亡(後に投降して戦後に高遠城主となった)、飯田城放棄を聞いた武田信廉(信玄の弟)らは戦意喪失。大島城(下伊那郡松川町)での抗戦は不可能とし、大島城から逃亡する。同じ2月18日、徳川家康が浜松城を出発し掛川城に入り、2月20日には依田信蕃が守備する田中城を包囲すると、城内に使者を送り開城を促した。依田信蕃は故郷の三沢小屋に退去し田中城は開城、2月21日には駿府城に進出した。
氏政は小仏峠や御坂峠など相甲国境に先鋒を派遣した後、2月下旬に駿河東部に攻め入る。2月28日には駿河に残された武田側の数少ない拠点の一つである戸倉城・三枚橋城を落とし、続いて3月に入ると沼津や吉原にあった武田側の諸城を陥落させていった。上野方面では北条氏邦が厩橋城の北条高広に圧力をかけ、さらに真田昌幸の領地をも脅かしていった。
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2月28日、河尻秀隆は信長から高遠城を攻略のために陣城を築けとの命を受ける。翌3月1日、織田信忠は武田勝頼の弟・仁科盛信の籠城する高遠城を包囲。信忠は地元の僧侶を使者とし、盛信に黄金と書状を送り、開城を促した。しかし盛信はこの要求を拒絶。使者の僧侶は耳と鼻を削ぎとられて送り返された。翌3月2日、織田軍30000余は総攻撃を開始し、仁科盛信や小山田昌行らは少数ながらも勇戦奮闘し、織田軍と激闘を繰り広げた。織田方も少なからずの被害を受け、岩倉家出身の織田信家が戦死しているほどである。しかし数で勝る織田軍に城門を突破されるに及び、ついに仁科盛信と小山田昌行は自刃。高遠城は落城した。
武田勢がことごとく逃亡する中で、徹底抗戦を貫き、武田武士の力を見せつけたのはこの仁科盛信だけであった。盛信の首のない遺体は彼を崇める地元の領民によって埋葬され、そこは今も「五郎山」と呼ばれている。